イエメンと日本との関係

背景と交流史

背景

1918年までのイエメン(ウィラヤト・アル・イエメン)は、現在、近東または中東と呼ばれる地域の大部分と同じように、最後のイスラム・カリフ国家であったオスマン帝国の一部でした。帝国の敗戦時に、オスマン帝国のウィラヤトは分割され、それのすべてがイギリスまたはフランスの植民地または保護領の支配下に入りましたが、アルマムラカ・アルムタワキヤ・アルイヤマニヤ(イエメン王国、または北イエメン)は、全地域の中で独立国として認められた初めてのアラブ国家となりました。

日本とイエメンの最初の接触は1890年にまで遡ります。その時は、2隻の日本海軍の船が11月27日にイエメン領ソコトラ島を、11月30日にはアデンを通過し、その後ペリム島そばのバブ・エル・マンデブ海峡を通過しました。[北九州市立大学法政論集 第31巻第2・3・4合併号 2004年1月,野田正太郎著トルコ派遣日本軍艦の記録 パート5:イスラム・西アジア,マイケル・ペン訳]

野田氏は1890年11月30日に次のように記しています。

"27日午後2時、コロンボから1,560マイルの距離で、我々は港の方向にソコトラ島を見ることができました。28日には、我々はアデン湾に入り、徐々にアデン市に近づきました。アデンを通過すると、我々がコンスタンティノープルに到着するための大きな障害はもはや存在しません。"

1890年12月10日には次のように記しています。

"船はアデンに到着しました。山々は赤く、砂は白い。先程、アデンを山々が赤く砂が白い場所として述べたが、今もう一点だけ付け加えたい。土地は乾燥し、草の背は低い。その一言を付け加える事で、私はおおむね申し分ない記述でアデンIIIへ要約することができるでしょう。しかし、もしいくつかの特徴的な外観を付け加えるとしたら、高くそびえ立つ標高1,776フィートに上る赤い山をあげます。この荒廃した寂しい港は、たしか13世紀に初めて開港し、一時は繁栄した貿易とビジネスの場所でした。ヨーロッパとアジアを結ぶ海路上の要衝は、1839年頃に東インド会社によって購入され、それ以来、状況は復興し始めました。現在では、この港からの年間輸出額は約250万英国ポンド、輸入額は約300万英国ポンドであることをご了承ください。

この辺りを見渡した時、あなたは高くそびえているゲート上に砲座があることに気づいて驚かれるかもしれません。それを気にも留めず、まるで眠っているかのようにとてもゆっくりと歩き回っているラクダがいます。とても肌の色が黒い住民が、とても白い羊の番をしており、ともに赤い土煙をあげています。これに対抗するために、何人かはラクダの背中に掛けられた皮袋から水をまきます。それにもかかわらず、残酷な日光はすぐに再び土を乾かし、彼らの努力を無に帰します。砂漠は際限なく広がります。 波の上で日光が反射した先には、2本の日本国旗が輝しくはためいています。

そこには、日本帝国の軍艦、比叡と金剛があります。その横の岸では、我々の旅の起源を聞いて、驚いて船を見るために集まったアデンの人々と思われる群集で、陸が黒くなっています。都市を散策すると、我々の船のトルコ人とこの都市に在住している彼らの同国人が一緒に座っている場面を見かけます。彼らは大量のタバコを吸い、大量のコーヒーを飲んでいます。母国が近い事を知って喜んで心の底から大きな声で笑っている彼らを見ると特にうれしく思います。

寂しかったアデンは今日、至る所でとても刺激的な場所となりました。白ずくめの服装をした日本人船員のグループはあらゆる店に入っています。彼らはダチョウの羽、巨大な卵等、あらゆる種類の普通ではない物品を発見しています。入る店では、たくさんの陶磁器、人形、武具のヘルメット、印刷写真を見せられるでしょう。ホテルの壁には、日本の風景画が掛けられています。美しい日本人女性の切抜きの絵があるスクラップブックさえあります。そのような独特な発想に出くわして、私は少々驚きました。"

彼は続けます。

"ブリティッシュ・タイムズ新聞の12月1日版に、以下の記事が印刷されます。"エルトゥールル号の69人の生存者を帰還させる任務で、2隻の日本軍艦が先月30日アデンに入港しました。...."。ある晩、数人の士官がアデンの海岸線のホテルで、イギリス人の電信係に会いました。この男性は、誇らしげな表情を浮かべて、我々の任務を繰り返し賞賛しました。彼はこの時、"今日、アデン政府が本国政府に日本の軍艦の到着を知らせる電信を送りました。私は、その報告書に印を押した一人です。明日1日、その記事はロンドン・タイムズに掲載されると思います。"と言ったそうです。

比叡と金剛が港に入った時、いつものように我々とアデン要塞の間で祝砲が撃たれました。小さいボートが港内の他の軍艦に挨拶するために送られ、それらは湾中に散らばって行きました。荒涼としたアデンには、3日間の春が訪れました。我々は12月3日午前9時に紅海に向けて出発しました。同日夕暮れ、バブ・エル・マンデブ海峡を通過し紅海に入りました。バブ・エル・マンデブは"血の涙"を意味すると言われます。港側に見えるぺリム灯台を頼りに、我々は多くの島々の間のかなり狭い海路を通り過ぎました。"
(引用文終り)

1839年1月以来、当時のアデンはイギリスによって既に占領されていました。これは日本人がアラブの地を訪問した最初の記録です。帝国崩壊までのオスマン人、1918年以降のイエメン王のどちらもイギリスによるアデン占有を承認していませんでした。すなわち、イギリスは南イエメンの地方の族長達と保護条約を署名していました。アデンは1869年11月16日のスエズ運河開通により戦略的な要衝となりました。

交流史

イエメンと日本の関係は20世紀初頭にまでさかのぼります。日本は1920年には既にイエメンへの強い関心を示していました。それ以来、イマーム・ヤヒヤ・ハミード・アル=ディーン イエメン国王(1948年没)との関係を強化しようと、精一杯の試みがなされてきました。その時代、日本はイエメンの織物と羊毛輸入の85%を占めることができました。

1938年、アル=フセイン・ビン・ヤヒヤ王子(1948年没)は日本を公式訪問しました。その訪問目的は1938年5月12日の東京における最初のイスラムモスクの開所記念式典に参加するためでした。訪問には、ハイレベル代表団がアル=フセイン王子に随伴しました。代表団のメンバーの中には、フセイン・アル=キブシー宗教大臣(後に1948年の革命運動政府の副首相兼外務大臣に任命される)と、カーディ・アリー・ビン・フセイン・アル=アムリー ホデイダ州副知事(1956年没)が含まれていました。

代表団は1938年5月7日に海路で長崎に到着し、そこで長崎県知事と京都市まで代表団に随伴したサイトウ外務省一等書記官が主催した公式レセプションを受けました。

代表団は1938年5月9日に東京に到着し、外務省儀典局、皇室の代表、東京のイスラム教徒社会の代表メンバーに帝国ホテルにて迎えられました。イエメン代表団の訪問は日本中から暖かい歓待を受けました。

1938年5月13日、アル=フセイン王子は昭和天皇陛下に謁見しました。王子はイマーム・ヤヒヤ・ハミード・アル=ディーン イエメン国王からの親書を手渡しました。親書には、日本によって成し遂げられた急速な開発と発展に対する高い評価と、東京初のモスクの開所記念式典へイエメンを招待して下さったことに対する深い感謝の念が記されていました。また、日本国天皇陛下と日本国国民に対するイエメンの敬意と思いやりの気持ちを表明するのに今回の招待は良い機会であったこと、アル=フセイン王子の東京訪問はイエメン・日本両国間の友好関係改善と有益な交流の新時代への道を開くであろうとも記されていました。訪問中、昭和天皇はアル=フセイン王子と代表団に名誉勲章を授与されました。

1938年5月19日、東京シンモン新聞が主催したレセプションには、開所記念式典に招待されたイスラムとアラブ諸国の全代表団が出席しました。東京シンモン新聞の編集長が述べた開会の挨拶に答えて、アル=フセイン王子は全ての参加者と招待客の代表として、昭和天皇による全代表団が受けた歓待への深い感謝の念と、昭和天皇は世界中のイスラム教徒の心に深く刻みこまれるでしょう、とスピーチで述べました。

訪日中、代表団は日本の国会と多くの民間及び軍事機関を訪問する機会を持ちました。その訪問は日本中に広く報道されました。イスラムに関する記事は相当数の新聞によって30回以上も取り上げられました。アル=フセイン王子は、報道機関に与えた声明の中で、アジアへの架け橋として日本を表現し、イエメン及びアラブ世界と日本の結びつきを強化していく方針を繰り返し確約しました。同じ期間に、日本イエメン親善交流協会の設立も発表されました。更に、イエメン・日本間の修好通商条約についても訪問中に議論がされました。アル=フセイン王子はイエメン国王より本条約を締結するための全権を委任されていました。彼に与えられた権限委任の本文は以下の通りです。

私、イマーム・ヤヒヤ・モハメッド・ハミード・アル=ディーン イエメン国王は、ここに我々のために大日本帝国との修好通商条約の締結に関する全権をアル=フセイン王子に委任します。本委任状はイスラム暦1357年12月6日(西暦1938年)に発行されました。

委任状に基づいて、イエメン代表団は東京の関係当局と、国交樹立と日本との修好条約を結ぶために交渉を行いました。王子とフセイン・アル=キブシー大臣は前述の目的達成とイエメンへの経済援助を得るために東京での滞在を延長しました。

1938年5月26日、昭和天皇はイエメン国王宛に、イエメンとの友好関係の強化と経済協力への日本の強い関心を表明する返書を送りました。そのメッセージにはアル=フセイン王子の日本訪問を歓迎すると述べるともに、今回の訪問が日本・イエメン両国関係の歴史の中で記念すべき出来事となったように、今後このような訪問が更に両国の関係を強固にするであろうとも述べられていました。

集中協議が両国間で開催されました。交渉の途上で、モハメッド・ラギブ イエメン外務大臣(1956年没)は、彼の日本側のカウンターパートであるハシヒロ氏に、アル=フセイン王子に1939年2月にロンドンで開催されるパレスチナ国際会議に出席するためカイロに向かうように伝えて欲しいという旨の電報を送りました。王子はイエメン代表団の団長として任命され、カイロで他のアラブ代表団と合流し、そこからロンドンへ向かうように指示されました。イエメン国王は、日本政府に対し、アル=フセイン王子のカイロ行きについて便宜を図って頂けるよう要請しました。日本政府はアル=フセイン王子を上海まで送るためのチャーター便を提供しました。そこから、彼はカイロ行きの船に乗り換えました。1939年1月15日、アル=フセイン王子は日本国天皇宛に、日本での最近の訪問中に彼と代表団が受けた歓待に対する深い感謝の念を表明する電報を送りました。

フセイン・アル=キブシー大臣は通商航海条約の締結前の詳細を詰めるために日本に残りました。それにはアル=フセイン王子が条約案の最終承認と締結ために日本に戻って来られるという見込みがあったためでした。しかし、第二次世界大戦の発生により、それはかないませんでした。戦争の深刻化を考慮すると、フセイン・アル=キブシー大臣は母国に帰る以外選択肢はありませんでした。1940年の離日に際して、アル=キブシー大臣は、日本国外務大臣宛に、訪日中に彼が受けた歓待に対する深い感謝の念を表明する電報を送りました。

イエメンと日本との関係におけるその他の重要な出来事は、1960年の日本国皇太子(当時)明仁殿下のエチオピア訪問の途上での、アデン港短期滞在でした。滞在中、皇太子はアデンタンク(貯水槽)を含むいくつかの都市の史跡を観光する機会がありました。当時の英アデン総督が全ての観光に同行しました。

長年の間に、作家、芸術家、文学者のグループがアデンの港町を訪れ、そこに数日間滞在しました。彼らの中には、国際的に有名な日本人の哲学者 和辻哲郎、俳人 高浜虚子、野上豊一も含まれていました。著名な日本人画家 藤沢アキラ(1998年没)もまたハドラマウト訪問の機会を得、芸術的創作品を通して古代行政区の史跡のいくつかを記録に留めるインスピレーションを得ました。

この歴史的概観は、1962年のイエメン・アラブ共和国を樹立した革命以前のイエメンと日本との政治、貿易、そして文化の交流レベルを反映しています。

1962年の革命以前は、イエメンとの日本の貿易はアデン植民地にて繁栄しました。トヨタ自動車の最初の代理店の一つは1956年のアデン代理店であり、今なおその代理店はイエメンにあります。

1966年、日魯漁業株式会社はソコトラ島と南イエメン領海周辺の沖合漁業の調査をしました。1967年には、英国当局の下で漁業を開始しました。1968年の南イエメン独立後は、会社はイエメンとの漁業権の契約を結びました。会社は1982年までイエメンで活動を続けました。

外交代表の交流

1963年5月10日、日本は、当時北イエメンとして知られていたイエメン・アラブ共和国を国家承認しました。1970年9月22日、日本は駐サウジアラビア大使を兼駐サヌア大使に任命しました。1976年12月7日、在サヌア日本大使館が公式に開館しました。在サヌア日本外交代表は代理大使としての地位のみでしたが、1989年6月7日、野口雅昭氏が初代駐サヌア大使として日本政府から任命されました。大使の後任として、鰐淵和雄氏(1991年9月3日~)、秋山進氏(1994年2月10日~)、星彰氏(1997年9月21日~)、大木正充氏(2001年3月17日~)、石井祐一氏(2004年4月~)と続き、2007年1月より敏蔭正一氏が就任しています。

1967年12月12日、日本政府は、当時南イエメンとして知られていた南イエメン人民共和国を完全な国家として承認する旨の声明を発表しました。1974年4月10日、駐カイロ大使を兼駐アデン大使に任命しました。1989年3月24日、南イエメンの日本大使館が代理大使としての地位にて開館しました。南イエメンは在京大使館を1974年5月10日に開館しました。(後1982年に財政緊縮政策のために閉鎖)

1981年4月23日、初代駐日イエメン・アラブ共和国大使としてアフマド・カイード・バラカット氏が任命されたのに引き続き、1981年6月16日、在京イエメン・アラブ共和国(北イエメン)大使館が公式に開館しました。1986年9月15日よりムハンマド・アブドルクゥドス・アルワジール氏が第二代大使として就任し、続く1990年5月22日のイエメン共和国の宣言の後、日本は新しく統一されたイエメンを国家承認しました。1991年までアルワジール大使は統一イエメン(イエメン共和国)の大使を続けました。その後、アブドルラフマン・アル=ホーティ氏が代理大使として大使館を引き継ぎ、その後1996年7月13日、彼は大使に任命されました。2003年から2007年10月まではアリー・アイダルース・アルサッガーフ氏がイエメン大使に就任しました。2007年11月よりマルワン・ノーマン氏が引き継いでいます。

イエメン-日本の経済技術協力

イエメン-日本の経済技術協力の歴史は、イエメンへの可能な経済技術協力と援助を調査するため、日本が技術者チームを送った1972年3月13日までさかのぼれるかもしれません。1972年4月13日には別の派遣団がイエメンに到着しました。これらの訪問の後、日本海外技術協力事業団(OTCA)はイエメンにおける開発に関する現状報告を発表しました。

1974年1月、小坂善太郎特使と日本の国会議員が、1973年の中東戦争に続く国際的な石油危機(オイル・ショック)直前にサヌアに到着しました。日本-イエメンの経済技術協力に関して真剣な討議が特使との間で行われました。当時、イエメンは国民和解の成功に続いて、国家の成長と開発を加速するのに熱心でした。

1975年8月、羽田野忠文外務政務次官兼外務副大臣は2つの友好国の間の二国間関係を更に強化する施策についての会談を行うためにサヌアを訪問しました。

1979年10月、アリー・ロトフ・アル=サウル開発大臣兼中央計画機構代表はアブドル・アジズ・アブドル・ガニー イエメン首相から日本の大平正芳首相へ二国間関係を促進させるための施策についてのメッセージを伝えるために訪日しました。訪日中、イエメンはハッジャ州村落開発プロジェクトといったような多くの重大プロジェクトへの資金提供による日本の援助を要請しました。

以上の点から、70年代がイエメンと日本間の経済技術協力において真の改善と成長を記したといっても問題ないでしょう。

80年代になると、日本はイエメン中の重要なインフラ設備を支援するための技術協力と資金を提供することに同意しました。1980年4月4日、日本の大平正芳首相はアブドル・アジズ・アブドル・ガニー イエメン首相宛に親書を送りました。大平氏はイエメンの社会経済開発を加速するための援助と資金を提供するという政府の意向を表明しました。

上述の目的のため、1983年7月に石川要三外務政務次官兼外務副大臣はサヌアを訪問しました。

1985年7月、左藤恵郵政大臣がサヌアを訪問しました。訪問中、地方の電気通信プロジェクトへの支援の方法を中心にイエメンの関連当局と集中的な会談が行われました。

90年代のダイナミックな経済技術協力

1990年代、日本とイエメンの経済技術協力は、前例のない水準に達しました。日本はイエメン統一に向けた動きを支援しました。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民共和国(南イエメン)の自主的な統一に続くイエメン共和国の宣言に、1990年5月23日、日本政府は歓迎の声明を発表しました。日本はイエメンの民主化と自由市場経済主義への国の方針を支援すると表明しました。日本はイエメンの潜在的な市場と天然資源に気づきました。これが90年代の日本によるイエメンへの技術協力と無償資金援助の増加の中に反映されていました。

1991年、日本によるイエメンへの援助のは1億USドルに達しており、当時、開発援助委員会(DAC)加盟国のイエメンに対するODA総額の約45.3%を占めていました。その年のDAC加盟国によるODA総額は2億2080万USドルと概算されていました。1998年のイエメンに対する日本のODAは6280万USドルに達し、同年のDAC加盟国によるODAの概算総額の37.4%を占めました。国際的な資金援助の分野では、日本は1991年と1998年は第1位1992年から1993年には第2位の地位を占めました。

このような高い水準での協力は2つの友好国の間でのあらゆるレベルでの継続的な接触と訪問を可能にしました。この背景の中で、アブドル・アジズ・アブドル・ガニー氏は、大統領評議会のメンバーとして明仁天皇の即位の礼に参列するため、1990年12月ハイレベル代表団を率いて日本を公式訪問しました。

2000年9月、福田康夫氏(内閣官房長官兼イエメン日本親善交流協会会長)は、イエメン政府からの招待によりイエメンを訪問しました。福田氏は、アブドゥ・ラボ・マンスール・ハディ副大統領、アブドル・カリーム・アル=イリヤーニ大統領政治顧問、アリー・ムハンマド・アル・アネシ大統領室室長、アブドッラー・アル=サイーディ外務副大臣、ムハンマド・ムバラク・アドバーン イエメン・日本友好協会(YJFA)会長らとハイレベル会談を行いました。二国間関係と共通の懸案事項である国際問題を中心とした会談が行われました。

2002年9月7日~9日、日本の杉浦正健外務副大臣がアブーバクル・アル=カルビー外務大臣の招待に応えて、イエメンを訪問しました。訪問中、杉浦外務副大臣は計画開発大臣、外務大臣、外務副大臣、イエメン・日本友好協会会長を含むイエメン政府高官らと会談を行いました。帰国前に、杉浦外務副大臣はアブドル・カーデル・バージャンマール イエメン首相を訪問し、アリー・アブドッラー・サーレハ イエメン共和国大統領に謁見しました。全ての会談において、イエメンの成長と開発にとって最大の利益となる二国間協力を強化するための施策を中心に会談が行われました。2005年3月には河井克行外務大臣政務官がイエメンを訪問しました。また、2006年7月には日本政府の無償援助によって提供された75,442USドル相当の医用機器のサヌアのアル・ショルタ病院への譲渡式に参加するため、伊藤信太郎外務大臣政務官が訪問しました。

イエメンへの主要な資金援助国として、日本は2002年10月17日~18日パリで世界銀行と共同開催された支援国会合に参加しました。会合の主要な目的は、社会経済の成長と開発の促進による貧困との戦いに対するイエメンの努力への支援の点で、国際的な援助を活性化するためでした。2006年11月、ロンドンで開催されたイエメン支援国(CG)会合では、日本と湾岸協力会議(GCC)を含めた支援国は最大47億USドルの拠出を誓約しました。2007年6月、イエメン支援国の第1回フォローアップ会合がサヌアで開催された時には、拠出誓約金の総額は約50億USドルに達しました。支援国とヨーロッパ、アメリカ、GCCの国際機関は無償援助および融資を通じての経済協力を拡大しました。

アリー・アブドッラー・サーレハ前大統領の歴史的な初訪日(1999年)

1999年3月14日~17日のアリー・アブドッラー・サーレハ大統領の東京への歴史的な公式訪問によって、イエメンと日本の関係は新たな段階に達しました。今回の訪問は日本政府からの招待に応えて実現しました。これはイエメン国家元首による初訪日となり、二国間に存在する素晴らしい関係への新しい一章を開きました。大統領の訪問はイエメン・日本の関係の歴史に中で重要な節目を意味します。訪日中、サーレハ大統領は日本国天皇を公式訪問し、陛下主催の宮中昼食会に参加しました。大統領はまた、小渕恵三日本国首相との会談を持ちました。会談では二国間から国際的な関心事までに及ぶ様々な問題を中心に会談が行われました。サーレハ大統領はイエメンへの日本の援助とイエメンの民主化・構造改革への日本の支援を高く評価しました。サーレハ大統領は、このような二国間協議が2つの友好国の協力関係とパートナーシップを一層強固なものにするだろうとも付け加えました。サーレハ大統領はまた、日本の国連安保理の常任理事国入りをイエメンが支持することを確認し、それに対し小渕首相は謝意を表明しました。日本国首相は構造調整の分野でのイエメンのひたむきな努力を高く評価し、経済協力プログラムを通じて、開発促進、経済改革、民主化に基づくイエメンの国家建設の努力を支援する用意があることを表明しました。小渕氏はまた、国連開発計画を通じてイエメン共和国の地雷除去プログラムへの財政的な貢献を拡大する日本の意向を表明しました。サーレハ大統領はイエメンの経済改革と貧困救済プログラムへの日本の支援に対し感謝の念を表明しました。

以下のイエメン高官による訪問が続きました。

  • 2000年3月 ムハンマド・アル=カデム・アル=ワジーフ石油鉱物資源大臣
  • 2001年11月 アリー・ハッサン・アル=アハマディー漁業資源大臣
  • 2002年1月 アフマド・ムハンマド・スーファーン計画開発大臣

アブーバクル・アル=カルビー イエメン外務大臣の日本訪問(2002年)

2002年3月8日~14日、アブーバクル・アル=カルビー イエメン外務大臣は東京を訪問しました。これはイエメン外務大臣による3回目の訪日でした。最初の訪問は1987年10月に、2回目は1996年12月に、アブドル・カリーム・アル・イリヤーニ副首相兼外務大臣によって行われました。カルビー氏の訪問は2つの友好国間の協力30周年を両国が祝うタイミングに合わせて行われました。イエメン外相は、日本の川口順子外務大臣とイエメンと日本間の一層の経済協力についての会談を行いました。その他には、国際テロを含む共通の関心事である二国間・国際間の問題についても議論されました。日本外相は経済および構造改革、社会保障ネットワーク、貧困救済プログラムといった分野でのイエメンの成功を高く評価しました。彼女は、以上の分野においてイエメンへの支援と援助を提供する旨の日本政府の意向を表明しました。双方は、共通の関心事である地域的・国際的なレベルでの問題において協議と協力を強化していくことを確認しました。日本外相は、イエメンは観光および投資の観点から興味ある魅力的な国であると述べました。彼女は、日本企業にイエメンへの投資を働きかけるために一層努力する意向があると表明しました。日本は湾岸協力会議(GCC)に加盟するためのイエメンの努力を歓迎しました。このような動きは、イエメンが欧州連合とGCC加盟国間の定例会議への参加が認められるのとともに、イエメンへの国際的援助の流れを促進するでしょう。

他の訪問は以下のとおり:

  • 2004年3月 ムハンマド・ロトフ・A・アル=イリヤーニ水・環境大臣
  • 2005年3月 ハーリド・アブドルワッハーブ・シャリーフ最高選挙委員長
  • 2005年3月 ムハンマド・ヤヒヤ・ノアイミー保健大臣
  • 2005年4月 アブドルワッハーブ・マフムード・イエメン国会副議長

アリー・アブドッラー・サーレハ前大統領の2回目の日本訪問(2005年)

サーレハ大統領・明仁天皇アリー・アブドッラー・サーレハ イエメン共和国大統領は、日本政府の招待により、2005年11月6日~8日にかけて日本を訪問しました。イエメン国家元首としての大統領の今回の訪問は、1999年3月の日本政府からの招待客としての初訪日に続く2度目であり、二国間の友好関係を一層深化・発展させるための契機となるものでした。訪問中、サーレハ大統領は天皇陛下を公式訪問しました。また、サーレハ大統領は河野洋平衆議院議長と会談を持ちました。

サーレハ大統領・小泉首相サーレハ大統領と小泉純一郎首相は会談をもち、二国間関係から地域間・国際間の問題にまでわたる様々な問題について議論を行いました。また、サーレフ大統領は日本の国会議員及び国際協力銀行(JBIC)の総裁とも会談しました。

全ての会談において、イエメンと日本の両国は、両国および両国民の間に存在する友好協力関係を更に発展させる意向を確認しました。首脳会談において、両国はイエメンの安定がアラビア半島の安定に絶対不可欠であるということを再確認しました。両国は、2000年のミレニアム・サミット宣言に従い、貧困根絶のための国際社会の支持とともに、従来の協力分野における関係強化のみならず、貧困削減、民主化、テロ防止といった分野において情報の共有と緊密な協力をとっていくという方針を確認しました。

両国は、国連(UN)が21世紀の新たな現状に対応するために、国連の包括的な改革が必要であるという見解で一致しました。サーレハ大統領は、日本の国連安保理の常任理事国入りをイエメンが支持することを改めて表明しました。小泉首相は、国際社会と協力してのテロとの戦いにおいて、イエメンが成功裡にかつ継続的に払っている努力に対し支持することを表明しました。

両国は、貧困削減計画と民主化を加速するイエメンの努力が、テロの温床の根絶及びテロ予防に繋がるとの見解で一致しました。そのため、日本側はこれらの目標を達成するために援助を提供する用意があることを表明しました。イエメンはテロ対策特別措置法に基づく活動を通じてテロとの戦いを継続するという日本の決定を歓迎しました。両国は、大量破壊兵器及びその運搬手段の不拡散が、中東、東アジア地域、そして世界の平和と安定にとって不可欠であると確認しました。

小泉首相は、経済改革と民主化におけるイエメンの政策を高く評価しました。日本側は、それらの努力への支持を表明するとともに、イエメンの経済改革が人々の生活水準を向上させることを期待する旨を表明しました。日本側は、基礎教育と地方給水と公共医療の重要性を認識し、ノンプロジェクト無償援助や食糧増産(2KR)無償援助といったODAの枠組みを活用し、イエメンのこれらの分野への積極的に支援してきました。日本側は、このような分野におけるイエメンの努力を引き続き援助していく用意があることを表明しました。

これに関連して、国際協力事業団(JICA)はイエメン5州の特定地域への地方給水プロジェクトの計画策定、及び地方給水当局の能力を向上させるための開発調査を実施します。また、JICAは昨年7月に再開された青年海外協力隊(JOCV)派遣プログラムを拡大します。更に、2006年に大統領選及び統一地方選挙が全国的に実施されることを踏まえ、日本側は、イエメンの民主化を一層加速するため、イエメン政府の支援を検討していく用意があることを表明しました。

日本側は、日本が世界全体に向けて普及に努めている人間の安全保障の概念をイエメンにおいても強化する意思を表明しました。日本側は、地雷除去活動を支援するため、イエメン地雷対策センター(YEMAC)に対して支援を行うことを決定した旨を表明しました。

債務削減を含む今日に至るまでのイエメンに対する日本の援助に対し深甚なる感謝を表明しつつ、イエメン側は、イエメン政府によって実施されている改革の結果として同国が直面している経済的、社会的難問について説明し、日本のより一層の支援を要請しました。

  • 2007年8月 ハムード・ムハンマド・ウバード青年・スポーツ大臣
  • 2008年3月 ハーリド・マフフーズ・バハーハ石油鉱物資源大臣

最近の重要な訪問は、2008年3月4日~9日にわたってハーリド・マフフーズ・バハーハ石油鉱物資源大臣によって行われました。滞在中、甘利経済産業大臣とイエメンでの石油とガスへの投資に日本の参加を促進させるための広範囲にわたる議論が交わされました。滞在中、石油鉱物資源相は、(独)石油天然ガス・金属鉱物資源機動(JOGMEC)が用意したイエメンでの石油・ガスに関するシンポジウムを開催し、それには20社以上の日本の石油会社が参加しました。ハーリド・バハーハ石油鉱物資源相は、石油分野においてイエメンの投資環境から利益を享受できることを日本企業に呼びかけました。バハーハ氏はまた、今年末にサヌアで開催される第三回石油・ガス・鉱物会議に企業の参加を勧めました。

彼は、イエメンLNG(YLNG)のために建造中の液化天然ガス(LNG)運搬船(液化天然ガスの最大積載能力5万立方メートル)の建造を見学するために、長崎の三菱重工業のドックを訪問しました。数社の日本の石油企業が今年末にサヌアで開催される第三回イエメン石油・ガス・鉱物国際会議への参加への関心を示しました。

最近のイエメンと日本間の相互訪問

2008

イエメン側から

  • 2008年4月 アブドゥル・カリーム・イスマーイール・アル=アルハビー副首相(経済担当)兼計画・国際協力相
  • 2008年4月 未来のためのフォーラム準備会合出席のため、ムヒ・エル・ディン・アル・ダッビー外務筆頭次官
  • 2008年6月 外務省からの招聘により、ハリード・アベル・ラフマン・アル・アクア外務次官補
  • 2008年10月 科学技術と人類の未来に関する国際フォーラムに参加するため、高等教育・科学研究省より派遣団
  • 2008年12月 サヌア州学校建設の合意書署名のため、JICAからの招聘により、教育省より派遣団
  • 2008年12月 研修コース参加のため沿岸警備隊より派遣団
  • 2008年12月 LNGタンカープロジェクトのため、アミール・アル・アイドルース石油・鉱物資源相

日本側から

  • 2008年6月 宇野外務大臣政務官
  • 2008年8月 永塚JICA理事
  • 調査のため、JICAより派遣団
  • 2008年12月 海上保安庁からの派遣団

2009

イエメン側から

  • 2009年3月 投資フォーラム出席のため、サラーハ・ムハンマド・サイード・アル・アッタール投資庁長官
  • 2009年11月 研修コース参加のため、沿岸警備隊より派遣団
  • 2009年11月 外務省からの招聘により、イエメン沿岸警備隊アリー・アフマド・ラシーウ長官

日本側から

  • 年間を通して、JICA、外務省、海上保安庁からの派遣団

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